みなさんこんにちは!
「れおっち」です(-ω-)/
いきなりですが、
みなさんは「脚本」というものを
書いたことがありますか??
れおっちは一度だけ、
「脚本」なるものを書くきっかけが
ありました。
それが
放送作家の「さらだたまこ」先生と
演出家の「藤本友徳」先生による
ワークショップでした\(゜ロ\)(/ロ゜)/
テーヘンダ―
→直接講義をしていただけた上に、
参加者が作った「作品」に対して
フィードバックをその場でもらえる、
という何とも贅沢な機会。
めったにできる経験じゃないな、
と思い飛び込みました( *´艸`)
今日はそこで得た気づきと、
それに関連してれおっちが
常日頃思っていることを
「文」というカタチにしてみました。
れおっちは普段からこうやって文章を書く、ということを定期的にしているので、
「〇〇についてどう思う?」ということを
与えられるとすぐに自分の考えを「言語化」できるようになってきました。
(※2年前のれおっちはそもそも、
自分の「考え」すらもっていなかったので
大きな進歩( *´艸`))
このことを言葉を換えてこう表現できる。
れおっちは
「想い」を「文」という「カタチ」で
表現することに慣れてきている、と。
つまり、「習慣」の話であり、
それ以下でもそれ以上でもない、
ということ。
「習慣」を変えれば、人はいつでも違う
「世界」を観ることができるし、
触れることが出来る。
僕たち人間はそれぞれの「考え」や「想い」といったものを自身の中に眠らせています。
(※ちなみに意識下におけるのはたった5%で残り95%は無意識に埋もれているそうです)
そして、僕たち人間は「無意識下」に
あることを「あえて」掘り起こしてみよう
とは中々しないもの、なのかな?
と思うのです。
(※れおっちはこれを掘り起こすのが
好きなのでよく「変人」と言われます笑)
実はこの「あえて」掘り起こす、ことこそ
「想い」を「カタチ」にする第一歩であり、
自分のウチを知る、ということであり、
その人をその人たらしめる行為であり、
ソトの「世界」に目を向ける準備
だと思うのです(゚д゚)!
何も意識しなければ、たった5%しか
自分の「世界」が観えない。
そんな狭い「世界」を掘り起こせば、
自分の「世界」が拡がっていく。
自分の「世界」が拡がってこそ、
その人はその人らしくなるし、
そうなってからやっと「本当の意味」で
外の「世界」に関心が湧くのだと思う。
言うなれば、「イモ掘り」です(*^^*)
土に埋まったイモを掘り起こすために、
僕らはツルを引く。
ツルを少しずつ引いていくと、
やがてそこには様々な形のイモが現れる。
そうやって少しずつ埋まっていたイモを
増やしていく。
ちなみにツルというのは、
オモロイ!なるほど!へぇ!
と自分が感じること、だと思っています←
いや待ってよ!(*´Д`)
「イモ掘り」で埋まっていた
イモを掘り起こせば「自分を知る」ことに
繋がって、
「観える世界」が拡がる
っていうのはとりあえずわかった。
でも、そもそもなんでイモがそんなに
埋もれているわけ???
れおっちは主に二つあると思っています。
その一つは「エネルギー容量」の話。
今まで自分の中に取り入れてきたことを
全部常に意識していたら、
そこに「集中力(エネルギー)」を
使ってしまって僕らは他のことに
意識が向かなくなってしまうはず。
エネルギーには容量がある。
だから自分の中にある、
「優先順位5%」の情報を意識下において
人は「意思決定」をすることなく
反射的に反応しているのではないかと
れおっちは思うんですよね。
(※ただの主観)
それに記憶にも容量がある。
だから、「※海馬くん」は記憶を
「選択」しているのであって、
「必要な情報」を残し「不必要なもの」を
忘れさせる。
※海馬くんについては後に貼る
「アウトプット」のお話参照
でも逆に言えば、残ったものは
「必要な情報」である、
ということでもあるはず。
それにも関わらず、人は常に自身の中にある「必要な情報」のたった5%で生きている
のだとしたら、残りは一体なんなのか。
それは「必要な時に参照される参照元」だと思うのです(゚д゚)!
つまり、5%だけでは不十分だな、という「意思決定」を必要とする際に
参照されるデータが残りの95%なのでは
ないか、と思うんですよね。。
(※完全に主観)
ところがどっこい!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
引き出しの奥に追いやった物が
なかなか見つからないのと同じように、
普段使っていない「記憶」というものを
取り出すためにはどうしても時間がかかる。
その時間を「もどかしい」と感じても、
じっと耐えられる人はその「記憶」を
上手に使えたりするのだろうけれど、
みんながみんな耐えられるわけがない。
というより、ほどんどの人がその
「もどかしさ」を理由に
本来ならば自分の引き出しに眠った
あらゆる「記憶」を参照すべきところ
5%の方で処理してしまう、のではないか。
「記憶」が引き出しの奥にあればあるほど、
時間がかかるため
そういうことが起こるのかな、と思う。
れおっちはそうやって、「もどかしい」と
なるのが好きじゃないんです。
ほんの2年前までは、
それこそよく「伝えたい!」みたいな
感覚になったり、
何かこう、言いたいことがあったとしても
なかなか喉からその「想い」が
でてこなくて、
結局「なんとなく」反応する、
みたいなことがよくあった。
でも「なんとなく」反応したことには、
納得感を持てなかったり、
モヤモヤとしたものが邪魔をして
心から楽しめなかったり、
するのではないかと思う。
だったらすぐに「探し物」が
見つかればいい!!
そのためにその「記憶」を使う必要がある!とれおっちは考えています(*´з`)
よく使うものなら、
たとえ引き出しの奥にしまったとしても
「あーあの段の奥に入れたな!」ということを身体が覚えているため
すぐに取り出せる状態になるからです。
「記憶」を使う??
これにはその「記憶」を人に話したり、
紙に書いてみたりすることが有効なはず。
「記憶を使う」とは、
つまり「アウトプット」のこと。
アウトプットには
「話す」「書く」がありましたよね( *´艸`)
↓ 忘れた人は復習オススメ(゚д゚)!
shizhonglingyang.hatenablog.com
今書いていて思ったのだけれど、
もしかしたらそんな原体験が
たくさんあるというのも、
れおっちは「文を書くようになった」理由の1つなのかもしれない( *´艸`)
もう一つパッと思いつく
「イモが埋もれる理由」があります。
それが「他者からの何気ない言葉」
だったりする。
特にその他者が自分にとって近い存在
であればあるほど、
イモが深く眠ってしまう理由になり得ると
思うのです。
れおっち自身も、母の何気ない一言で
「夢を持つことをあきらめた」経験が
あります。
(今は新たに夢を思い描けるようになった)
「〇〇したい」を理屈で
「そんなの無理だよ」と封じ込められると
無意識のうちに「〇〇したい」と思うと
傷つく→だからやめよう
って処理されるのかな、
と個人的には思っています。
それぞれの人に、生きている中で
自分の気持ちが抑え込まれる体験が
あったりすると思う。
実はその時の気持ちこそが自身にとっての「イモ」だったりするんじゃないかなぁ
なんてれおっちは思うのです(゚д゚)!
順番的には
イモを掘る
→その記憶を使う
→すぐに取り出せるようになる
なので、やはり「イモ掘り」が大事!
↓ 具体的な「イモ掘り」のやり方はこっち
shizhonglingyang.hatenablog.com
さてさて。
めちゃめちゃ「前置き」が長くなって
しまいましたが、
いよいよ本題に入りたいと思います。
#え、今までの前置きだったの
#大草原
と言っても、ここまでの「前提」が
共有されていれば
今回のお話はサクッと伝わると思います
( *´艸`)
れおっちは思うんです。
「想い」を「カタチ」にしてこそ、
そこに「イミ」が生まれてくるんだって。
そして、その「想い」を「カタチ」に
する方法は色々ある。
文を「書く」だったり、
言葉を「話す」だったり、
イメージを「描く」だったり、
その気持ちで「踊る」だったり、
メロディに乗せて「歌う」だったり、
まさに形にして「作る」だったり、
表現(想いをカタチにする)方法は
たくさんある。
兎にも角にもどんな方法であれ僕らは
「想いをカタチにする練習」は大切にすべきだとれおっちは思うのです。
そして、できることならば
「表現する方法」を増やしていきたいな
って。
増えれば増えるほど、
色んなカタチで「想い」を表すこと
ができる。
その中で、れおっちは今回「脚本」という
可能性を知ったんです。
それは1つの「創造」であり、「文」であり、
「映像」であり、「演技」である。
オモシロイ!!
「脚本」の中には少なくとも4つもの
「カタチ」が存在するんだ!!
その発想はあまりなかったなぁと
まず一つの「気づき」。
ブログは基本的に「書く」であり、
それは「文」を通して行われる。
れおっちはそこに「ジャンル創造」という
ことを加えてやっていたりするけれど、
それでも2つの「カタチ」。
もちろん「数」が全てじゃないけれど、
一度に多くの要素に触れられる、
というのは新鮮な風だった。
今ふと思ったのは「ミュージカル」は
「演技」×「歌」×「踊り」だなって( *´艸`)
世の中にあるエンターテイメントが
どんな「カタチ」で成りたっているのか、
視てみるのもオモシロイかもしれない。
今回、れおっちにとって特に新鮮だったのは
「映像」と「演技」という
「カタチ」でした。
今までほとんど触れたことがなかったから
です(*´з`)
参加者は1つのテーマを与えられて、
3分間のショートストーリーを
「創造」することがミッションだった。
テーマは「和解」
※内容自体には諸事情により、
今回は触れないことにします( *´艸`)
いつか記事を書くかも??
とにかく、初対面のグループメンバーと共に
テーマに沿った「作品」を創ろう!
最初は
「脚本」ってきっと難しいんだろうなー
とか、
しかも、一人じゃなくて
その場にたまたま居合わせたチームメンバー
と一緒に創る、だなんてできるのかなぁ
って思ってました。
でも、いざやってみると
案外どうにかカタチになっちゃうもの
なんだな、というのがれおっちの感想です笑
※具体的に出来上がった作品は
もしかしたらいつか公開するかもしれませんが、今は内緒♡
そこで学んだことをシェアさせていただいて
今日は筆を置きたいと思います!
学び①
背景描写と心理状態を掛け合わせる
→たとえば、「雨」と「涙」を連動させる、とか。
◎「天気」と「心理状態」は掛け合わせ
やすいのかなって思った!
学び②
小道具を上手に使う
→たとえば、「プレゼント」に「皮肉」
という意味付けをして渡す
◎物に「意味づけ」をすることで
「無機的な物」が「有機的な物」になる
学び③
アクションと想いは裏腹な関係
にあったりする
→「嫌い」と言葉では言っていても、
実際にそれを使ってみたりしている
◎必ずしも人間は整合性のとれる
行動をするわけではないところに
「人間らしさ」がある
学び④
意外性がオモシロミにつながる
→大きな箱と小さな箱があって、
「こういうのは大きいのに良いものが、、」
と思ったら「大きいものに良いものがある」
◎ある種の「お決まり事」みたいな
「期待」を裏切るところに
オモシロミが生まれたりする
学び⑤
あえて「書かない」ことで
そこに「余地」を残す
→たとえば、「健司は笑った」と書いて
あったとすると、
それを演じる側は「どのように笑ったのか」を考える「余地」が生まれる
◎「意味づけ」をしすぎないことが、
そこに「余地」を残すことに繋がり、
「受け手」がそこに「意味づけ」を
することで「作品」を「作品」たらしめる
他にも、「映像」を撮る際に
どんな角度から映し始めるのか、
奥行きをだしたかったら「高角度」で撮る!
といったことや、
台詞を言う「主体」を映すのではなく、
あえて台詞を聴く「客体」を映してみる、
とか
顔を映すのではなく、
心情が観える「手の動き」に注目してみる、
といったことを学ばせてもらいました!!!
詳しいことはあまり言えないのですが、
ここで作った「作品」をコンペのようなものに出すことができるみたいなので
せっかくだからだしてみよう!と思っているれおっちだったりします( *´艸`)
このような機会を設けて下さった方々、
そして
貴重なお話を聴かせて下さった
「さらだたまこ」先生、「藤本友徳」先生
本当にありがとうございました!( *´艸`)
今日はこの辺で♪
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