「れおっち」のブログ

あなたに「小さな刺激」をお届けします。

「涙」のイミを考えてみようじゃないか。-言葉にならない想いー

 

みなさんこんにちは!

「れおっち」です(-ω-)/

 

本日は入院12日目。

なんだかんだいって

退院まであと6日になった。

(いやー長かった)

 

それにしてもおかしいなあ?

 

毎日時間はあっていくらでも

寝ていい環境にあるくせに 

毎日寝不足なのは。

 

#毎日夜更かししてるからだよっ

 

 

どうやら夜更かしするかどうか、は

「時間があるかどうか」は関係ないらしい。

 

 

さて。

 

朝からちょっとした哲学的なことについて

考えてみたいと思います。

 

(たぶん原理的には疾うの昔には解明されているのだろうけどそういう話じゃない)

 

 

 

「涙」って

僕らにとっていったい

どんなイミが

あるんだろうか。

 

 

僕自身の経験をもとに考えてみたいなって。

 

 

あなたもまた、あなた自身の経験を

参照しながら一緒に考えてみてくださいな。

 

 

結論から言うと、

「涙」は「本気の証」なんだろうなと思っています。

 

 

 

僕は小さい頃小学校低学年まで

本当によく泣いていた。

 

だいたいが母との

「話し合い(仮)」の時だった。

 

「話し合い」???

 

僕の家のそれは決して

「話し合う」類のものではなかった。

 

一度だって満足のいく「話し合い」になったことはなかった。

親が何かを僕に怒鳴り、

それにまた僕も感情で訴える。

 

僕も幼かったが、母もまた幼かった。

 

 

往々にして僕は泣いていた。

 

今考えてみると、

当時の僕にはとてもじゃないけれど

自分のウチにある「想い」に「言葉」というカタチを与えてやることなんて

できやしなかった。

 

自分がどう考えているか。

 

自分がどう感じているか。

 

 

だなんて、

自分ですらわかっちゃいなかった。

 

自分でじっくり自分と対話して

思考するということができなかったのだ。

 

→ 僕の「国語嫌い」による能力不足

 

「涙」というのがせめてもの抵抗だった。

 

「言葉」にならない「想い」が

ウチ側から溢れて目からボロボロと

零れ落ちていたのだ。

 

 

僕はよく泣いていた。

 

 

次第に僕は泣かなくなっていった。

 

というより、泣けなくなっていった

 

 

ここからしばらく、

僕は自分の「想い」に蓋をする時期

へと突入していった。

 

だいたい高校三年生までかな。

 

自分の中にある「想い」ではなく、

他人に合わせるという、他人の「想い」を

優先させるようになっていた。

 

 

いつしか、

僕は「自分」というものを見失った。

 

自分の感情がわからなくなった。

 

そんな時期でも、

数回は「涙」の記憶がある。

 

ある時は

「自身の率いる応援団が応援優勝を

手にした時」だったり。

 

ある時は

「二度告白して晴れて付き合うことになった相手に結局振られた時」だったり。

 

 

そのどちらにも共通していたのは

全部「本気」だったってこと。

 

 

じゃあ逆に、

自分では「本気」のつもりだけれど

「涙」がでなかったらそれは

「本気」じゃないのか??

 

という話になるけれど、それは違うと思う。

 

 

自分の言語化能力が高かったり、

また感情を押し殺すような環境下だったり、

自分の心のソトにあることが原因で

「涙」がすぐにでないことは起こり得る。

 

出来事がショック過ぎて、

その時は何も感じなくて

徐々に涙が出ることもある。

 

 

つまり、

「涙が出る」には

「本気さ」が「必要条件」だけれど、

「本気さ」は「涙が出る」ための

「十分条件」でしかないということ。

 

 

人は「涙」を

流すとき、例外なく

その心はその対象に

対して何らかの観点で「本気」になっている状態にあるんじゃないかなあということ。

 

 

 

僕は「文転浪人」を経てから

現在までの5年間。

 

それはそれはひたすら

「考える」ことをやめなかった。

 

それは自分は周りよりも

圧倒的に遅れているという

ある種の「焦り」だったり、

「負けん気」からだったり

したわけだけれど、

とにかく「学び続ける」ということを

意識的に続けてきた。

 

 

近年は、そのおかげか

自分のウチ側にある「想い」に対して

わりとすぐに「言葉」を与えられるように

なってきたんじゃないかなあと思える。

 

 

これは僕にとってはとても大きいことで、

また、「涙」にとっても

また大きいことなんじゃないかと思う。

 

 

小さい頃はある意味、

「為す術がない」といったカタチでの

「涙」だったことが多いわけだけれど、

近年はそういった

「仕方のない『涙』」ではなく、

「言葉にできる想い」を超えた

さらに向こう側から来る

「涙」になったんじゃないかと思うのです。

 

#何言ってんだコイツ

 

 

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↑ 「言葉」以外にも「想い」を伝える方法はあるのさ♪

 

 

別にだからといって、

「言語化できないころの『想い』」と

「言語化できるようになってからの

『想い』」の間に

優劣なんてないけれど。

 

確かに「涙」がでるくらい

「想い」が本気なのは素敵だと思う。

 

ただ、それが相手に伝わらないのも

もったいないとも思う。

 

 

だから僕らはなるべく「言葉」という

共通の「言語」を用いて、お互いのウチ側を

知り合い、そしてわかり合おうとする。

 

 

一方で、大切な人の「涙」という「言語」は

なるべくわかってあげられる人で

ありたいなあということ。

 

「涙」はその人特有の「想い」そのもの。

 

「言葉」に嘘はあるけれど、

「涙」にウソはきっとない。

 

 

その「涙」の裏側にある、

その人だけの「想い」を知る。

 

そのためには結局「言葉」が必要だし、

かといって「言葉」のみならず

「涙」も必要だと思う。

 

 

 

僕らは「大人」になるにつれて

「涙」を見せるだなんて

「情けない」だとか、

「子どもみたい」だとかって、

否定的なことを言われがちだ。

 

 

果たして「涙」を見せることって 

「情けない」ことなのだろうか。

「子どもみたい」なのだろうか。

 

果たして「涙」を我慢することが

「大人」たり得る条件なのだろうか。

 

 

僕にはどうもそうは思えない。

 

大人だとか、子どもだとか。

そんな「立場」なんて関係なく、

自然に僕らの目から零れ落ちる

「涙」は美しい。

 

そこにどんな

「イミ」が隠されていたとしても

その「人」は本気で生きているんだ、

という点において。

 

 

僕はこれから、もっともっと

たくさん学んで、もっと相手に伝わるような

表現方法を磨いていく。

 

それでも時には「涙」に出逢うと思う。 

 

自分の「涙」や。

大切な人の「涙」に。

誰かの「涙」に。

 

 

そんな時には、

その「涙」とも

真っ直ぐに向き合いたいと思う。

 

 

 

今日はこの辺で。

 

 

 

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