みなさんこんにちは!「れおっち」です(-ω-)/
本日は1月9日。只今仕事の休憩中に必死こいてつらつらと記事を書き始めたところ。
なんで必死かって???
昨日と一昨日の記事をまだ書いていないので(今年は365記事書くことが目標)
本日の仕事終わりに全部で三つ書かないといけないーーというわけだからです。
はい。
そんな状況にもかかわらず、身近にいるとあるトラブルメーカーくんのトラブル対応のため、たぶん1・2時間仕事終わりに割くことにしてしまった自分は本当にバカなのか、お人好しなのか。はたまた、それでも譲れないナニカを守ろうとしているのか。
どちらにせよ、メンドクサイな自分と思いつつ。それが自分なんだと再確認していたりする。
そんな状況ではありますが、本日の記事をじゃんじゃん書いていこうと思います。
今回のテーマは「コミュニケーションエラー」について。
コミュニケーションエラー云々の前に、そもそも「コミュニケーション」って何?
というところからつらつらと書いてみる。
コミュニケーションって何??
と聞かれたら何と答えるのか。
これはとても陳腐な表現になるけれど、それ以上のコトバが自分の中にないのでこう描写する。
コミュニケーションとはキャッチボール
です。
※コミュニケーションと言ってもそこには言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションがあるわけだけれど、ここでは一旦前者を想定して話を進めることにする。
片方がボール(コトバ)を相手に向けて投げる。
それをグラブで捕った相手がまたボールを投げ返す。
そんな双方向的な営みが「コミュニケーション」なわけです。
ここでやっと本題の「コミュニケーションエラー」に舞い戻ってみる。
「コミュニケーションエラー」つまり
「投げたボールが狙ったところに行かずに相手に受け取られない状況」のこと。
なんらかの理由でキャッチボールが続かなくなることが「コミュニケーションエラー」だということなわけです。
さて、ここでキニナルのはいったい全体どうしてキャッチボールが続かなくなるのだろう??ということ。
大きく分けると4つに分けられるんでね?!!というのがれおっちの暫定的な見解。
①投手側の問題
②キャッチャー側の問題
③環境の問題
④ボール(コトバ)自体の問題
この「コミュニケーションエラー」のお話はかなり重要だと思うので、とてもじゃないけれど1記事では書き切れん。ということで、今回は④の「ボール問題」についてピックアップしようと思う。
正直言って、①から③までの要因よりも実は④の要因が一番戦犯なんじゃないかって思っている。
つまるところ、「ボール」自体が「コミュニケーションエラー」を引き起こす!!!というのがれおっちの見解なわけですが、いったいぜんたいどういうことなのか。
「言葉」は基本的に意味やイメージが共有されているからこそ伝達され、意思疎通が図れる。キャッチボールが成立し得るということ。
ぼくらは言葉をどうやって学んでいくのか??
基本的には日常生活の中でダレカが発し、それを受信し、意味やイメージがインプットされていくことで語彙が増えていく。一応辞書に意味が書かれているわけだけれど、基本的には辞書を通して知ることの方が非日常になっているのではないかと思う。
それに仮に辞書を通して文字面としてその言葉を知ったところでたぶんぼくらはその言葉を真の意味で「使う」ことはできないんじゃないかと思う。どういう状況でどんなニュアンスで使われるのか?具体的な体験を伴って初めて言葉は生きたコトバになるんじゃないかと思うのです。
さて、段々と核心に近づいてまいります。
「コミュニケーション(ここでは言語コミュニケーションを指す)」は「言葉」を介して行われる営みで、それは互いに共通の意味やイメージを共有しているからこそ成り立つという構造がみられる。が、往々にしてその共通の意味やイメージは共通のテキスト(たとえば辞書)から学ばれるというよりは、個々人が触れる日常という具体的な体験の中でインプットされていくのではないか、ということだった。
と、すると確かにニュアンスやイメージはその言葉が使われる文脈が似通えば近いものとして認識され得るわけだけれど。逆に言えば100%同じニュアンスやイメージとして認識されているかと言うと、そうとは言い切れないように思う。人によって受け取り方は変わってくるものだから。そこには多少なりともズレが生じてくるのではないか?
それに様々な体験の中で元来は共通の表象(イメージ・ニュアンス・意味・カタチ)として捉えらていた言葉に極端な印象が加味されることもあり得る。
たとえば、「海で遭難した体験」から「海」という言葉に対して「恐怖」という印象が付加されるようなとき。
一般的には「海」という言葉は「青い」「キラキラとした場所」「魚がいる場所」「みんなでわいわいと楽しい場所」「広い」といったような言葉たちが連想され、恐らく良いイメージとして捉えられることが多いと思う。
このようなパターンは「海で遭難したことがある人」と「一般的な捉え方をしている人」との間に大きなズレが生じ得るのではないか??と思うわけです。
「言葉」は「ボール」なわけで、そのボールが投げられ捕られる営みこそが「コミュニケーション」ならば、「ボール」に対する認識のズレは大いに「コミュニケーションエラー」に関係するのではないかと思う。
そして、もっというならば「言葉」というのは自身のルーツ・出身地や生物学的な区分(男女)、社会的な身分(大人だとか子どもだとか)、貧富の差、育った環境など。
本当に多くの「ラベル」によってズレが生じ得る可能性を孕んでいるように思う。
つまり、「遭難」のような極端な例でなくともズレというのは頻繁に起こるんでね??ということなわけです。
一見、みんなが共通認識を持っていそうな「言葉」でも人によって「意味づけの仕方」が異なる。つまり、「言葉」は「個々人にとって意味や定義が異なるコトバ」であるということです。
「言葉はコトバであり、
そこに自身のアタリマエは通用しない」
この意識が自分のアタリマエの中に組み込まれているかどうか。
それがコミュニケーションエラーを起こしづらくするか否かの命運を分けるのではないでしょうか。
そして、仮に「コミュニケーションエラー」が起きてしまったらどうするのか?
これはもはやシンプルで。
ひたすら「コミュニケーション」を取ろうとするスタンスを持ち続けるしかない。
この一択だと思う。
人は分かり合えないという人がいるけれど、クソ喰らえで。
それはあくまでも「分かり合おうとしなかったら」ということなわけで。
無意識に任せて、本能のままコミュニケーションを取ってしまったらそれは「違いからくる分かり合えなさ」に繋がってしまうと思う。
どんなに分かり合えなくても、分かり合おうとコミュニケーションを取り続ける。
これだけが、全く違う生き物同士が「分かり合える道」への唯一の方法だと僕は思うの
です。
今日はこのへんで!アディオス!!
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