ぼくは今、最寄り駅のマックでマックシェイク(チョコ味)を片手に筆を執り始めたところです。
#あれなんかこれデジャヴ感スゴイぞ
前回は「教育って何?」ということをつらつらと書いていたものの、途中までしか書けなかった気がするのでこの記事でも「教育って何?」の続きから書いてみたいと思う。
前回のお話を読んでからそのまま続けて読んでもらえるとよりオモシロイらしいのでぜひこちらからお読みください↓
shizhonglingyang.hatenablog.com
はい。
ということで早速本題に入っていきますが、前回のお話では「教育」に送り仮名つけたら何が入りそう?という問いから入りますた。
たぶん多くは「教え育てる」となるのだろうけど、れおっちはそれってどうなん?と問いたいというお話です。
ぼくの目には「教え育つ」と映るのです。
それを考えるためにぼくが提示したのが「教育における目的ってなんぞ?」という問いですた。
親も先生も上司もきっと「子や生徒や部下の成長」を願ってるよねというところで終わったわけですが、どうでしょうか。
次に考えたい問いはこちらです。
「成長ってどういう時にするん?」
というか、そもそも「成長」ってなんなんだ?というお話なわけですが。
まあ、一番わかりやすいのは「身長が伸びること」だと思う。
身長が伸びると何が変わるか?
「景色」が変わる。届かなかった場所に手が届くようになる。
小さな芽がカオ出していた植物が、すくすくと育ちやがて蕾になる。
そして、蕾から花が顔を出す。
小さな芽だった頃には到底見えなかった世界が目に映り、
多くの観測者を魅了できるようになる。
そんな過程を広く「成長」と呼ぶのではないでしょうか。
「見えなかった世界が見えるようになり、できなかったことができるようになる」
「教育」という文脈における、「成長」の行き着く先は何か?
それは「対象の自立」だと思うのです。
子どもや生徒や部下が自分の足で立って、自分の頭で考えて歩いていく。
そうなるためのサポートが「教育」なんじゃないか?と思うわけです。
ここで焦点を当てたいのが
「教育における主人公って誰ぞ?」
ということ。
「教育を享受する人」
だとぼくは思うんです。
ここで最初に立ち戻ってみたいのです。
「教育」に送り仮名をつけるとして、なんと付けますか?とぼくはお聞きしました。
一般的な解は「教え育てる」
そうなんです。違和感を感じるのはぼくだけでしょうか?
ぼくの認識が間違っていなければ、
「教育」は「教え育てるもの」という認識が日本の当たり前になっている。
じゃあその「教え育てるもの」における主語は誰になっているのか?
そう。
「教育を施す側」
なのです。
「先生」「親」「上司」がその主語に(つまり主人公に)なりがちな気がするのです。
だから「教え育てる」という認識になる。
果たしてこの「教え育てる」から導かれるのは「対象の自立」なのか??
はなはだ疑問です。
ぼくてきには「教育」という漢字を用いていること自体にそもそも疑問を抱いているのですが、この言葉が普及している以上なかなかその現状を変えることは難しいわけで。
だとするならば、せめて「送り仮名」における認識だけでも変わったらいいなーというのがぼくの考えです。というか、そうあってほしい。
「教え育つ」
教えを施す側が「主人公」なのだとすれば、ぼくはこう思う。
人に「教える立場」ならば、誰よりも自分が「学び続ける人」であるべきだと。
そんな想いを込めて、ぼくは送り仮名をつけてみました。
「(先生が)教え育つ」
教えることを通して、自分が育つ。
自分がその立場になるのなら、そう思い続けたいものです。