2024年8月24日。
今日はものすごく濃い一日だった。
たくさんのことに気づいた一日だった。
このアツさをここに記しておくべく筆を執ります。
一言で言うと、「仲間」の解像度があがったのと。
「仲間」がほしいなって思ったなって話。
これを読んでいる人にとって「仲間」ってどんなものなんだろう。
今日の今日まで、自分にとって「仲間」と「同志」はほぼイコールとして捉えていた。
でも違ったんだなって。
頭に想い描く「絵」というか、「世界」というか。
目指そうとしている「場所」が同じ人。
それが昨日までの自分にとっての「仲間」であり、「同志」だった。
けど、これって「同志」の話だったことに気づいた。
「仲間」は目指している「場所」に同じフネの中で向かう人。
「同志」はイメージで言うと、それぞれのフネでそれぞれのカタチで同じ場所に向かう人って感じ
ワンピースで言うところのルフィにとって「仲間」はゾロやナミのこと。
「同志(であり、ライバルである)」のがローやキッドのこと。
「友」であり、「同志」であるOとの対話がキッカケで、このことにハッとしたのだった。
Oは4人の「仲間」と共に「趣味としてのお笑いを当たり前にする」ということを掲げ活動している。その先に彼らが視ている世界は「不正解をなくすこと」だと言う。
「お笑い」という切り口で、4人の「仲間」と実際に活動し、そして活躍しているOのコトバだったからこそ、たぶんこのことに気づけたのだと思う。
Oが言っていたことで印象的だったのは「Being」に共感して集まる人が「仲間」で、「Doing」で集まる人は「協力者」「チーム」ということ。
なるほど。
自分自身の体験を重ね合わせてみた時にそれがものすごく突き刺さってきた。
ぼくには「同志」はたくさん周りにいるけれど、「仲間」はいないのかもしれないなって思う。
「人生のパートナー」はいるのだけれど、それもまた「仲間」とは属性が違う気がする。
贅沢な悩みだと思いつつも、自分自身もせっかく目指したい「場所」があるのだから、それを独り抱えていつまでも動くわけにもいかないなって。
最後になるけれど、ぼくの目指す世界をコトバにしておく。
ぼくは「自分の日常をオモシロがれる人」を増やしたい。
その先に視ているのは「〇と✕のない世界」です。
ここで言う「〇と✕がない」というのは個々人が感じることに社会が〇を強要するような空気感を造ることだったり。個々人が感じることに✕のシールを貼ってしまうようなこと。
そのためにぼくは「ダレカの日常が彩るキッカケを描く侍(彩るサムライ)」として、これからも様々な活動をしていきたいと思う。
その過程で、「自分もそう感じる!」という誰かと出逢えたらいいなって思います。
今日はこの辺で!