ぼくらはあまりにも恵まれている。
恵まれすぎているから、不幸になっているのかもしれないとさえ感じる。
何気なく息を吸って吐いてるだけでも、自分の周りにはどこかのダレカが生み出したナニカが転がっている。
喉が渇いたと思えば、公共の水道が使えるし。用を足したいと思えば、そこら中にトイレがある。
基本的には最低限労働に従事すれば、雨風凌ぐ家には住めるし、疲れた時は外食で済ませられる。
今の時代スマホ1台あれば、職や得たい情報はいくらでも手に入る。
手に入らないものを探すほうがむしろ大変だ。
こういったことは今の時代多くの人がアタリマエのように享受できるから、各々の「満足度」を量るモノサシはそこが基準になる。
モノサシで言う、ゼロがそこになるってこと。
それって皮肉なのかもしれないけれど、
「人が幸福だ」と感じる余白が少なくなっているということなわけで。
その状態に慣れてしまったぼくら人間は段々と「幸福」に疎くなる。
感謝の気持ちはどこか意識のずっと奥のほうに埋もれていく。
自分が今そういう時代を生きていることに自覚的になりたいし、自覚的であり続けたい。そうすれば、少なくとも自分が今置かれている状況が「幸福」なのか?とちょっと離れた位置から俯瞰できる気がする。
じゃあどうすれば、そんなことを意識し続けられるのか?
その一つの解が「ナニカを自分で生んでみる」ということなのではないか?と思うのです。
恵まれすぎたこの世の中で、自分が「生む立場」になってみる。
そうすると、この世の中にある全てのものの裏側に目が行くようになると思うのです。
今目に見えているものじゃなくて。その背景に何があるのか。
ナニカを生もうとすると、そのために何が必要なのかを考える。
その必要なものをどうやって手に入れていくのかを考える。
そんな体験がきっと僕らのアタリマエの水準を良い意味で下げてくれるんじゃないかな?
ぼくはそう思う。
今日はこの辺で!
↓ ポチッと登録よろしくお願いします♪ 記事更新後すぐに通知が行きます。